昭和41年04月15日 朝の御理解



 昨夜御祈念を終わらせてもらってから、十二時を過ぎておりましたでしょうか。福岡の方達が皆んなで、昨日は大祭の御供え物を買い整えまして、みつおさんの車で、秋永先生、文男さん、高橋さん、杉山さんと四人が、代表で御供えを持って参って参りました。いつも夕べ参りますから、私待っておったんです。もう十一時いったから、もう今日は福岡は見えんとでしょうね、いつも十五日の日でしたよちから久富先生が言われるから、いやいつも十四日の日に、晩に持ってくるばってん。
 もう今まで見えんとこは見えんのでしょうからと、それまで、まぁまいっとき待たせて待っとりましたら、ようやくこちらへ参りました。あの御届けを致しまして、甘木のところで事故にあって、車が衝突して、三差路のところです、甘木タクシ-の車が、みつおさんの車にぶっつけて、それでその事故の話合いがつきませんもんですから、まぁ二時間かかった訳ですね。
 まぁここで勿論こちらが悪いとじゃありません。向こうがぶっつけてきたんですから向こうが、まぁ弁償する事になったそうですけれども。まぁ【     】ちょっと前がひっこんだだけだけれども、やっぱり仮にすれば一万二・三千円位、まぁ掛るだろうと言う様な、本当に衝突にしてはまぁ軽傷ですんだ訳でございますけれども、その事を私は御届けさせて貰いよりましたら、大根を頂きますもん。いやぁ後でまぁいろいろ話をしました事ですけれども、丁度今朝の三時まででした。
 まぁいろいろもうあの人達が参りますと、又あの御造営のあちらの、御検討でございますけれども、明日の事もさる事ながら、その事を一生懸命検討して帰りましたから、三時になりました。本当にあの福岡中の人達が真心こめてね、沢山の御供えを買い整えて、しかもその代表の方達が、四名であの御届けの途中に、そうした事故があらんでもよかろうごたる、ね。けれども神様はもうそれを修行不足だと、修行不足のところを修行をさせてと、こう言うて下さるところに言うとですたい。
 神様の本当のおかげを下さろうとする信心をめて行く上のそうした神様の働きというものを、私共がようく分らなければいけない。御供え物を持って行きよる途中で事故にあうのは、と言う様な感じ方では信心は進みません。信心が進んでいくという事はね、もうどの様な場合ででも、これはまぁだ私の信心が足りぬからじゃと、一段と信心を進めていけば、そこからおかげを受けられる。
 そこからおかげを受けられるという、そこからのところを、これほど信心するのにというて、これだけ神様に打ち向こうて行きよるとに、こんな事があるというたら、もうそれきりでしょうがね。だから信心を進めて行くという事は、そこんところをしっかり、ひとつ、皆さんが腹に入れとかなけれはいけんのですよね。これだけの信心をさせて頂きよっても、神様はいわば大祭を迎える前のひと修行をさせて下さるという事を、そこんところを有難く受けさせて頂くという事と同時に。
 これは、私の修行が足りませんから、いうなら、教祖の御理解にありますように、これはまぁだ、私の信心が足りぬからだと、そこから、一段と信心を進めていけば、おかげが受けられるとおっしゃるけれども、そのそこからのところで、皆んながこれほど信心するのにというて、信心を低下させていったり、そこから信心を挫折したりするような事では惜しい事ですよね。
 昨日の朝の御理解あの御祈念の後に、中島の大和さんが、今度御本部参拝のおかげを頂いて、菊栄会ではあの人が一人でしたもん。今度は福岡博多の駅を発たせて頂いてから、久留米の駅に着くまでを、うとうととこう休んだ時に、お知らせを頂いた。それがどう言う様なお知らせかというとですね、もうそれは素晴らしい見晴らしは、見晴らし台でしょう。断崖絶壁と言った様なところに、その大きな見事な風呂がある。その中にその入っているんですね。
 菊栄会の連中が、らしいんです。したらそこに親先生が見えてから、こげなところでお風呂にども入りよったら、危なかち、折角お風呂に入るならばあの、今椛目であの事業させてもらいよるあのすじ湯ですね、あのすじ湯ち行きゃ、あげな風呂に入らなければ危なかち、だからもうこげな風呂どん入らんな早う上がって、だれでんにしもうてから、そうしてその九重の方へ行こうというて、まあ九重へ向かって行きよる。
 そこの椛目のが事業しよるという事が、今ちょうどの久富組が、久富建設の正義さんが、まぁあすこで道路を作りよりますもんね。そんな事も含めまして、まぁあの人が菊栄会の会長ですから、まぁそう言う様な表現をなさったんだろうとこう思うのです。それでその、大和さんが私を単車に乗せて、うんならそちらの方に参りましょうと言うて、まぁそこが、私と大和さんの二人で、そのあそこは久重ですかね、山の麓までやらせし頂いた時にその単車が、私を乗せてもろ倒れたというわけなんです。
 そしたら、先生が仰る事が、大和さんのあのここんところばい、ここんところばもうちょっと行くとね、もう向こうにね、自家用車が待っとるからね、それから先が楽じゃとおっしゃった所で目が覚めたとね。もう本当にですね、信心を抜きにしてです、信心の浅い人がおかげを頂いた、さあ又売れた、又売れたと言う様な、調子ずいたおかげを受けてです、成程その安気安穏な、家は立派に建てた。
 贅沢が出来ると言う様な生活って言う様なものはです、それこそ断崖絶壁の心をもって、風呂に入って、見晴らしが良いもんじゃから、これは素晴らしい見晴らしと言うているようなものであって、もう何にかちょっと下が崩れたら、風が吹いたら、もう断崖絶壁に吹き落とされんばかりのところに、これはあるように危ないものだという事ですよ。これは私共でも思うですもんね。
 信心の薄い人、又信心の無い人がこう姿を見てから、ほんに一本橋の上を渡りよりござるごたる思いがして、こっちの方からひやひやしておる、祈らなければおられないというようなものを感じるのです。信心がなかっても、本当に見事なお家に住んで、百味の飲食を頂きながら、いうなら、金粉をまといながら生活をして、安気安穏かのように見えるのだけれども、実際は一つもひやひやした、活をしござる人達が、沢山ある事です。不安な生活なんです。
 今こげんおかげを頂きよる、まぁ楽しょるが先は、どげんなるじゃろうかと言った様な、不安の生活をしておる人が、どの位あるか分らんのですけれどもですね、そういうところから、そういうところから危ないばいと、折角入るならというて、すじ湯というのは、まぁ日本一でしょうね。あのお湯の水、お湯の綺麗な事と湯の量の多いという事においては、もう限りなくその湧いて、流れ出してきておる訳なんです。
 あぁいうお風呂でなからなければ、本当に極楽と言う様な、おかげを頂くならばあそこまで行ってからの、おかげでなからなければ、ほんなもんじゃないぞと、その道すがらにはです、私と一緒にあっても、私と一緒に信心させて頂きよってもね、倒れる、倒れるような事があるて、単車でもろともに一緒に倒れたとね。先生のいわっしゃる通りにしたばってんから倒れたというて、先程から、私が申しますように、その御理解ではないですけれどもね、これほど信心をさせて頂いておる。
 これほど神様に打ち向こうておるのに、こう言う様な事が、どうして起こるであろうかというておる時には、もう信心はとどまっておるとね。これは神様の御都合に違いがないと、これはまだ信心が足らぬからだと、そこから一段と信心を進めていけば、いわば次ぎには、もう自家用車が待っておるというんです。そしてもう限りのない、危険のない、危ない事のない、もう只本当に水とお湯が半々にです、もう限りなく溢れておるようなお湯に入ってこそ、始めて極楽というおかげになるのであるという事。
 私今朝その事を思わせて頂いておりましたら、綺麗なそのタイル張りのお風呂なんです。そして途中からこうあの、熱いお湯が出てくるとこのあれがありましょう、あの穴がね、そこの下に少しばかり汚れた水が入っとるですもん、これである人がですね、お風呂に入って気持ちが良かったばってん、もうその沸かしてももう、穴の下にしか水がないもんですから、沸かんとですたいね。もうそう言う様な場でバチャバチャやってその体を洗っておるような状態のところを御心眼に頂かせてもらってですたい。
 例えば私共が人事の限りを尽くして致しますと、タイル張りならタイル張り、檜の香りのプンプンする様な、檜の風呂なら檜の風呂でも、そこを作らせて頂くと言う事は、人間のこれは、いうなら人間の【 ? 】の側の私共氏子のなさなければならない事なんです、ね。限りなくお恵み下さると言う事は、神様なのです。お恵みを下さると言う水という事が、お恵みと言う事でありますが、そのお恵を限りなくこのお湯に注いで下さって私共に一度かけさせて貰う所に、そのお湯が溢れる様に湧きもするのですよね。
 いうならば、もうおかげを頂かなければ、立ち行く事じゃないという事なんです。どんなに見事なそんなら家を建てましてもです、不安な生活をしておる、ね、喜びの生活が出来ていないならば、もうそれは、立派な風呂は出来たけれども、不自由なお風呂にしか入っていないのと同じでしょうが、ね。人間の力の限りを尽くして立派な、ならその家を建てたとね、さぁお風呂もきたけれども、例えば今度は体が具合が悪うしてからお風呂にも入れんという病気をしたら、その風呂はなぁにもならんでしょうがね。
 もう本当に百万力と言う様に、頂いてもいわばそのおかげを頂きましてもです、食道癌なら食道癌という病気をしてご覧なさい。その百味の飲食の前だけで食べたいけれども、食べられんと言う様な、生活をしておる人が沢山おるでしょうがね。それはまぁ例ですけれどもです、神様の許しを頂かなければ、神様のおかげを頂かなければ、無尽蔵に限りなくお恵の水を頂かなければ、私共が如何に、立派な風呂を作っても同じだという事です。だからそういうおかげを頂きますその道すがらにです。
 只今申しますように、信心させて頂いておれば、そういうまぁ危険な極楽のような状態ではあるけれども、危険な時であればそれは危険である、危ないぞと言うてお気付けを下さってから、さぁ折角入るならば、久住のようないわゆる、あの久住の山の麓にあるあのすじ湯のような、風呂に入らせて頂く事こそが、本当の極楽ぞという事、その本当の極楽ぞという有難い、勿体ないという生活をさせて頂く。その本当のこれもお徳を受けなければ有難い、勿体ない生活は出来ませんのですね。
 そういう生活が出来る道すがらにはです、信心しておってとに、どうしてこの様な事がと必ずない筈がない。あるて。それは私と一緒に単車に乗って行きよっても先生を乗せて行きよるけんで、倒れやせんばいという事はない。私もろとも倒れるような事があるけれども、信心しよってからこんな事が、親先生の仰る通りにしょって、こんな事になったと言う様な事ではなくてですたい、ね、これはまぁだ私の信心が足りぬからだと、一段と信心を進めていけば、そこからおかげが受けられる。
 そこからすじ湯的な極楽のおかげが開けてくるのであり、もうそこには自家用車が待っておるのだけれどもです、単車が倒れたら、もうそこの倒れたそこのところで信心を又、後退してしまう。そしてここんところを行ったり来たりしておるような、信心がいつまで続いても本当な事ではない。信心には私がいつも言う様に もう本当に信心ばかりは、一にも押しなら二にも押し、三にも押しです。もう押しの一手以外にありません。どういう押しの一手かというとですね、これはもう神様の御都合に違いはない。
 これはまぁだ私の信心が足りぬからだと、これ以外にはありません。そこんところをひとつ、お互いがようく腹の中に入れときませんとです、折角這えば立て、立ては歩めと言う様な親心の現れがですね、そういう型になって現れてくる時にです、ね、どうしてこれだけ信心しよるとに、こげな事になるじゃろうかと、言った様なその事を思うたり、言うたりして、信心に本当の信心のところに行き着かずに、終わってしまわなければならない様な事では惜しいですもんね。
 そこんところが大事に出来れる信心をです、しっかり、私は身に着けておかなければいけない。今朝から頂きます事、そして大和さんが、博多から久留米までの間に頂いたというお知らせ、秋永先生達が夕べ、朝の三時方までもかかってから、お供え物のおかげを頂いてきておるにも係らず、途中でそういう事故にあったという事、ね、そういう事を合せて一つ皆さん考えて見てですたい。
 あぁこういう神様の働きが、例えば福岡の人達の上にもあっておると、そこを有難く受け貫かせて頂いてこそ、限りない、いわゆる自家用車が待っておるというところまで、行きつけるのであり、限りないすじ湯の温泉のようなです、限りない湯煙が湧き出るような、お風呂にも入らせて頂いて、本当に有難い事ではあるという、極楽の境地とでも言おうか、ね、その極楽的お徳を受けて、おかげを受けられる。喜びの生活に入っていけれるという。そこまで私は信心をひとつ本気で進めていかなければいけないと思う。
   どうぞ。